競馬と悟り

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「競馬と悟り!?絶対繋がらないだろw」

「なんだこのタイトルは!?」

分かる

気持ちは分かる。

ただ、最後まで是非

読んで欲しいと思う

競馬を通して

「悟り」の一端を見ることが出来るはずだから。

「悟り」って聞くと

お釈迦様や仏教を思い浮かべて

お堅い話が始まるんかなって

思うかもしれないが

お堅い話をするつもりは一切ないので!

気軽に読んで欲しい

競馬の予想にも役に立つ心構えが分かるし

是非とも読んで欲しい!!

よくある競馬のワンシーン

なんで、16番人気のこんな馬が突っ込んでくるんだよ

買い目から切った馬が1着かよ…。

こう言った経験は

競馬ファンの皆んなは

誰もがしたことあるだろう。

人気馬に逆らったら、人気馬が好走

ノーマークで軽視してた穴馬が大爆走

そう言ったことばかりで

競馬が嫌になってしまう。

考えれば考える程、競馬なんて分からねえ

そう思ってしまう人は

多いのではないだろうか。

考えれば、考えるほど

何が正解か分からなくなってくる。

多種多様なファクターが

競馬の予想には必要だ。

いろんなファクターを用いて

自分なりに考えてはみるものの

なかなか

結果は伴わないものだ。

むしろ

自分が大切だと思ったファクターを用いて考えた結果

切ってしまった馬が爆走

買った馬が凡走

そう言ったことがよくあるだろう

私自身の経験で言っても

直近なら

京都新聞杯がその最たる例だ。

スピード勝負に強いだろうと

考えていたダノントルネードが

まさかの

スピード勝負に弱いと

考えていたサトノグランツに敗北

スピード勝負に強いのか

スピード勝負に弱いのか

そのファクターが大切に違いないと判断して

そのファクターを用いた結果

馬券を外してしまった。

頭をフル回転させ

しっかりと考えて

考え抜いた結果がコレだ。

こうやって馬券を外すと

毎度の事に

ありのままに馬の素質を見るのが

如何に難しいか

本当に痛感させられるのだ。

言葉の本質に迫る

なぜ、考えれば考えるほどに

真理(馬券を当てること)から遠ざかるのだろうか

その理由は

言葉は物事を二つに分ける働きがあるからなのだ。

言葉が物事を二つに分けると言うのは

一つの言葉があったら

それと反対の概念が

必ず存在すると言うことだ

例えば

アーモンドアイスピードのある馬だ」

こう言った文章があるとしよう

アーモンドアイと言う言葉には

①アーモンドアイと言う馬

②アーモンドアイ以外の馬

この2つを分けた中の

前者の①の方だけを

取り上げていると言うことになる。

スピードのあると言う言葉には

①スピードのある馬

②スピードのない馬

この2つを分けた内の

前者の①だけを

取り上げていることになる

つまり

「アーモンドアイはスピードのある馬だ」

と言う短い文章の中で

2つに分ける作業が二重に行われているのだ

このように

互いに対立し、相反するものを二分化する

と言う特性が

言葉には隠れているのだ。

「大」と「小」、「善」と「悪」、「速」と「遅」

こう言ったものは

相反する概念で

言葉の特性を表している。

当然だが

人間は思考する際に

必ず言葉を使って思考をする生き物だ。

つまり

思考と言うのは

この二つに分ける作業を

何重にも重ねていくこと

だと言えそうだ。

思考の弱点

物事を二つに分ける

それが思考の大きな特性であるが

それは、同時に大きな弱点になるのだ

なぜかと言うと

正しく認識することが出来なくなるからなのだ

先ほどの例を使うなら

アーモンドアイが走っている姿を見て

「アーモンドアイはスピードのある馬だ」

そのように思考したとしよう

アーモンドアイが走っている姿を見ているまでは良いものの

「アーモンドアイはスピードのある馬だ」

そう考えた瞬間に

相反する概念である

①アーモンドアイ以外の馬

②スピードのない馬

この二つが生まれ

アーモンドアイ以外の馬はスピードのない馬だ

このような概念が生まれてしまうのだ。

このように

人間は思考をする以上

自分自身は分かっていない認知バイアス

常に抱えている。

そして

そのような認知バイアスを

競馬の予想をする際に

何回も繰り返しているのだ

しかも、色んな要素が複雑に絡み合う競馬は

無意識下で認知バイアスが重なり続けるので

当然

正しく認識するのは不可能になってくる

その結果

競馬の予想がドンドンと

的外れになっていくのだ

正しく見るための知恵

では、正しく見るためには

どうしたら良いのか。

最も馬のことを正しく見れている瞬間というのは

馬を見て

その馬の特徴や雰囲気を

思考せず(言葉を使わず)に見ている瞬間である。

その時が

正しく物事を見れている唯一の瞬間だ

思考を挟まないで物事を見ていることを直観

と言うのだが

その直観が大切であるだろう。

直観を使い、物事を正しく見る

そう言った智慧を仏教では

「般若」と呼んだりしている。

つまり、馬を見る際には

言葉による認知バイアスのかかる前の

直観を重視する

それが馬を正しく見る際には

大切になってくるのだ。

直観を働かせるには

とは言っても

俺らは

お釈迦様でもなければ、悟りを開いたわけでもなければ、仙人でもない。

思考を挟まずに

物事を正しく見るのは

難しいことなのだ。

ココで

オススメしたいのが

全ての馬を贔屓して見てみると言うことだ

どうせ、どの馬を考察しても

認知バイアスは生まれる

これは仕方のないことなのだ。

大切なのは

思考をする以上は認知バイアスが生まれる

それを分かった上で

どのように対策していくかなのだ

認知バイアスによって生まれた障壁

これを一つずつ潰していく

そのための知恵として

全ての馬を贔屓して見てみる

これが大切であると考えている。

最初の方に言った通りで

言葉を使って思考をすると

必ず相反する概念が生まれる

その相反する概念が生まれるのを

前提として踏まえ

我々の思考により

相反する概念が

生まれてしまったせいで

間違ったイメージがついてしまう馬を

極力無くしていくのが大切だ

そのために

全ての馬をポジティブな目で見る

これが大切になってくるに違いないだろう。

「この馬の得意な戦い方は何だろうか?」

「この馬にとってベストな条件は何だろうか?」

そう言った温かい目で全ての馬を見てやる

それが思考の罠を

抜け出す方法の

一つであると考えている。

これは仏教では

「正見」と呼ばれている

終わりに

競馬を通して

直観に近付いたならば

それは十分に悟りの境地に近づいたと言えるだろう

仏教においては

悟りというのは

世界全体は仏の本体であり

それが尊いものであると

気付いていく事だと言われる

だが、世界全体を見つめるというのは

困難なことだ

なぜなら

人間は目に見える部分に捉われがちで

目に見えない部分を軽視したり

自分の考えに受け入れられないことを

平気で無視してしまう

自身の知性は正しいものだと

思いがちな生き物だ。

本当の意味で物事を正しく観るのは

非常に困難なことの一つなのだ

しかし

自身の思考の癖、思い込みがあるという事を

競馬は分かりやすく

着順という結果をもってして

俺たちに分からせてくれる

競馬を通して

自身の認知バイアスに気づけたならば

それは自分の思考の

癖、思い込み、囚われ

それらを解放していくことであり

世界を正しく捉える一歩を踏み出したと言っても

過言ではないと思うのだ

次回予告

話が壮大になったかもしれないが

今回はとりあえず

ここら辺で締めようと思う!

競馬の予想ばかりでも良いんだが

偶にはこう言った記事も書こうかなと思ってる

ちょっと難しかったかもしれないが

何となくでも意味が分かってくれれば嬉しく思う!

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